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東京を観る視点
カルチャー

没入型アートと、「写真映え」以後の鑑賞

· 3 分で読めます
TokyoScopeMedia 編集部 Editorial Desk

TL;DR

  • 没入型アートの隆盛は、鑑賞が「観る」行為から「その中にいる」体験へと重心を移したことを示す。
  • 写真映えが集客を支えた一方、撮影が鑑賞の目的を置き換えてしまう逆転も起きている。
  • チームラボなどの実践は、作品と観客の境界を溶かすことを意図的に設計してきた。
  • 体験の強度が増すほど、後に何が残るのかという問いが重くなる。

暗い空間に足を踏み入れると、床も壁も光の模様で覆われ、自分の影さえ作品の一部になる。来場者はスマートフォンを掲げ、思い思いの角度で光をすくい取る。没入型アートと呼ばれるこの形式は、ここ十年で東京の文化地図に確かな位置を占めるようになった。問いたいのは、その人気が何を意味しているのかである。

「観る」から「いる」へ

従来の美術鑑賞は、額の前に立ち、距離を取って対象を眺める行為だった。没入型の作品は、その距離をなくす。観客は作品の外から眺めるのではなく、内側に取り込まれる。チームラボの公式の説明でも、作品と鑑賞者、作品同士の境界を曖昧にすることが中心的な狙いとして語られてきた。鑑賞の文法そのものが書き換えられているのだ。

もっとも、境界をなくすことは、批評的な距離をも奪いかねない。浸るほどに、立ち止まって考える余白は減っていく。

写真映えという両刃

没入型アートの集客を支えたのは、間違いなく撮影のしやすさである。光に包まれた自分を撮り、共有する。その連鎖が新たな来場者を呼ぶ。ところが、撮ることが目的化すると、作品はもはや体験する対象ではなく、撮影のための背景に縮んでしまう。美術手帖の批評でも、撮影前提の展示が鑑賞の質をどう変えるかは継続的に議論されてきた。映えは入口であって、出口ではない。

強度のあとに残るもの

強い体験は記憶に残りやすい。だが、強度と意味は必ずしも比例しない。光の洪水に圧倒された数十分が過ぎたあと、手元に残るのは大量の写真と、漠然とした高揚感だけ、ということもある。一方で、内側にいたという身体的な記憶は、額の前で得る理解とは別種の何かを残しもする。純喫茶が音や匂いで記憶を呼び起こすのと、どこか似た回路だ。どちらが上だという話ではなく、種類が違うのだ。

鑑賞の更新として

没入型アートを「映えのための装置」と切り捨てるのは容易い。けれども、それは鑑賞という行為が更新されつつある現場を見落とすことになる。観客が作品の内部に立ち、身体ごと巻き込まれる経験は、絵画の前で培われてきた鑑賞とは異なる回路を使う。問われているのは、その新しい回路をどう批評の言葉で受け止めるかである。映えるかどうかではなく、体験のあとに何が思考として残るか。没入型アートの価値は、その一点で測られるべきだろう。

参考・出典

  • チームラボ 公式サイト 作品コンセプトに関する記述
  • 美術手帖 展示・鑑賞論に関する各記事